ポール佐藤の「まちの音まちの色」第16回

出会いと別れの春は、ちょっと苦手な季節である。今年も家から一人巣立っていった。進学なのだから嬉しいことに違いないのに、何とも言えないこの切なさはなぜだろうね。きっと綿々とくり返されていく大きな世代の流れの中に自分もいる、それを実感して溺れそうになっているのかな。
引越し先のモダンなアパートに来てみて、まったく対照的な三十年前の自分の部屋を思い出した。

 風呂無し、トイレ共同の、ビルの谷間の古い木造アパート。物件紹介に「日当り無し」と書いてあった通り、朝起きて始めにすることは蛍光灯のコードを引っ張ることだった。
夏場暑くて窓を開ければ、隣のビルのエアコンの室外機が現れ、更に室温は上昇した。それでも大都会東京に潜伏する僕の小さな城。自由な時間が流れる秘密基地だった。
一番気に入っていたのは鍵。大家さんに渡されたのは古めかしい真鍮製で、なぜか明治時代を連想してしまう。女子トイレのマークみたいな人型の鍵穴を覗けば中の様子が見えた。合鍵を作っておこうと鍵屋さんに行ったものの、こんなのできないと笑われたので諦めていたが、下北沢の雑貨屋さんでアンティークな銀色の鍵を見かけて買って帰り、差し込んでみたら開いてびっくりしたね。今考えるとなかなかオシャレな話だよね。自分の部屋の合鍵がアンティークショップに置いてあるなんて。

 この鍵は今も持っている。これを使えば、いつでもあの頃に戻れる気がして。あのアパートはきっともう無いのだろうけど。

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