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ジーパン学長 大学を変える!〜八戸大学第8代学長 大谷真樹さん


大谷学長

 5月のある日、八戸大学・学長室。
 「挨拶回り用でね」とスーツ姿で現れた大谷さんだが、「これは仮の姿(笑)だから、ちょっと待ってね」と、トレードマークの白いシャツとブルーデニムに着替えてきた。
 『大学の学長』といういかめしいイメージからは、かけ離れたスタイル。通称「ジーパン学長」だ。
 大谷さんが、4月1日付けで8代目の八戸大学学長に就任したというニュースは、関係者や市民に新鮮な驚きと期待を持って迎えられた。就任会見では、「大学を変えたい。革命を起こすぐらいの気持ちで取り組む」と抱負を語った。
 革命? ということは、大学はこのままじゃいけない。つまり課題があるということ?

ジーパン学長のたくらみは、青森からの逆転ホームラン

 「そう。今は少子高齢化で、大学全入時代が来る。私大はどんどん淘汰されていく。この先100年も生き残ろうと思ったら、発想をまるきり変えないと」
 具体的には? 
 「大学はサービス業だってこと」
 考えたこともなかった…。
 「お金をいただいて、学生を4年間お預かりする。学生はこの4年でどんな先生に出会って、どんな友だちに出会って、何を学ぶかで、その後の人生ががらっと変わっちゃう。これは究極のサービス業ですよ」と、ジーパン学長は言う。

 ふと、部屋中に貼られた写真が目についた。写っているのは学長の大谷さんと、新入生との2ショットだ。学生が手にした色紙には自分の名前と、将来の夢が書かれている。
 「新入生みんなの名前と夢を僕の頭にたたきこんだ。それで、この写真を親御さんと校長先生に送った。確かにお預かりしましたっていう印としてね」
 究極の目標は『青森からの逆転ホームラン』だと、機会があるごとに大谷さんは語っている。
 学生たちの写真を眺め、楽しそうに笑う姿を見て、ああ、この人は本気なのだと、思う。
 若者を育てることは、まさにその地域の未来を育てるのと同じことだから。
 なるほど、新学長がこれまでと違うのは、服装だけじゃない。
 大谷さんは八戸市鮫町に生まれ、警察官である父親の仕事の都合で、県内を転々としながら育った。五所川原で高校を卒業後、学習院大学入学で上京する。大学では、好きな山登りとアルバイトに明け暮れる日々。楽しかったが、当然、勉強する時間なんてない。大学4年の時点で卒業見込書が出ない成績ではあったが、なんとか卒業して日本電機株式会社(NEC)に就職した。

八戸大学

 「ダメダメ男だったもん」と本人が笑うように、会社員時代は給料日のことと、どうやって休むかばかり考えていたという。…今の姿からは想像もできないエピソードが次々と出てくることに、驚く。
 「当時って、サラリーマンの道しか僕の中にはなくて、そのレールに乗ったらずっと行くんだと思っていた。そこから飛び出して自分で社長やろうなんて、そんなことはしちゃいけないと思っていた」

サラリーマン退職、どん底にもがく


マリーバコーヒー

 祖父は大蔵省に勤務。いとこもおじも親戚はみんな公務員で、民間に就職したのは大谷さんだけ。
 「商売やること自体が家訓に反するというか、そういう空気の中で育った」という。
 30代半ばになった大谷さんは、大阪からの転勤の内示を断るため、なかば脅しのつもりで「それなら辞めます」と告げた。
 すると会社側からあっさりと承諾され、勢いでサラリーマン生活に別れを告げた。
 東京に戻り、義理の父が社長を務める映像製作会社を手伝うことになる。しかし、バブル崩壊後で経営は苦しく、会社は億単位の借金を抱えていた。
 大谷さんは自分の貯金まですべてを注ぎ込んだものの、焼け石に水。どん底の状況にもがくことになった。
 挽回しようと、90年代半ば当時、日本に上陸したばかりのインターネットを使ってアンケート調査を行い、テレビ業界向けに情報提供するサービスを始めた。自らも経験のあるAD(アシスタント・ディレクター)の過酷な業務をサポートする目的もあった。しかし、先の見えない日々は変わらない。 

 

 どん詰まりの大谷さんは、気分転換にと友人のアメリカ旅行についていくことにした。といってもお金はないから、友人が泊まるホテルの床で寝かせてもらうような旅である。
 行き先は、カリフォルニア州北部の「シリコンバレー」。時はまさに1999年。アップルやグーグル、名だたるIT企業が数多く集まる地域に、「世界を変えてやろう!」と若い才能が世界中から集まって、ヤケドしそうにホットな時代だった。
 しかし当の大谷さんは、
 「シリコンバレーって自然公園かなんかだと思っていた(笑)。マイクロソフトも、ジョブズも、名前すらまったく知らなかったんだよね(笑)」

 

 後にIT企業を創業する人物とは思えない話ではある。
 
 シリコンバレーでは至るところで、才能と野心ある若者がむしゃらに頑張っていた。パソコンにかじりついてコードを書き続ける人。パワーポイントを使い、投資家に新しいビジネスの計画を熱く語る人…。そこここで活発なカンファレンスが開かれていて、そこでは人種も出自も関係ない。インド人も韓国人も、誰もが寝る間も惜しんで働いていた。

インタビュー

 わずか1週間の滞在で、100人以上から決まって聞かれた言葉がある。
 「君のビジネスモデルは何?」
大谷さんは言葉に詰まった。
 インターネットを使って情報を集めていると話した。しかし、相手はさらに食い下がる。
 「君のやっていることは分かった。でも僕が聞きたいのはビジネスモデルだ。どうやって会員を増やすの? どうやってマネタイズ(収益化)するの?」
 「何を」するかではなく、「どうやって」するか。事業のネタよりも、それをどうやって事業化するかという方法論こそが重視される。
 日本では考えたこともない課題だった。大谷さんは、頭をハンマーで殴られたような衝撃を感じた。

シリコンバレーでの目覚め

 プレゼンテーションの声を聞きながらキャンパスの芝生に寝転んでいると、時差ボケのせいか眠くなってきた。うとうとと、30分も眠っただろうか。目覚めたとき大谷さんは、得体の知れない大きなエネルギーが自分の中にあるのを感じたという。
 「今でもはっきり覚えている。何か…〝降りて〟きたんだよ。なんでも自由に挑戦していいんだ。運命って、変えていいんだ!って。すごいエネルギーがみなぎっていた」
 それまで、運命は変えられない、変えてはいけないものだとすら思っていたというのに。
 起業家・大谷真樹さんは、この瞬間に生まれた。

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